会津征伐(あいづせいばつ)は、慶長5年(1600年)に徳川家康によって行なわれた上杉景勝征伐のことである。なお、この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。
経緯
慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉が死去し、後を継いだ豊臣秀頼が幼少のため、豊臣政権は大きく動揺した。そしてそのような中で、次の天下人の座を狙う関東の大大名・徳川家康は、権謀術数の限りを尽くして親豊臣派の大名の追い落としを図った。まずは、会津征伐に至までの経緯を年表としてまとめておきたい。
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慶長3年(1598年)。
8月18日。豊臣秀吉、死去。
8月25日。朝鮮出兵における五大老・五奉行の日本軍撤退命令が出される。11月半ばまでに撤退は完了。
11月26日。家康、長宗我部元親(土佐22万2000石の大名)の伏見屋敷を訪問する。
12月3日。家康、新庄直頼(摂津3万石の大名)屋敷を訪問。
12月6日。家康、島津義久(薩摩57万石の大名)屋敷と細川幽斎(細川忠興の父)屋敷を訪問。
12月11日。増田長盛(大和郡山20万石で五奉行の一人)屋敷を訪問。
慶長4年(1599年)。
1月3日。島津義弘(義久の弟)と島津忠恒(義弘の三男)屋敷を訪問。
このように、家康は豊臣政権における有力諸大名の屋敷を頻繁に訪問した。勿論、これらは家康が天下取りのために行なった多数派工作である。ところが、この家康の五大老五奉行にも無断で行なった諸大名訪問は、豊臣政権の法令の一つである「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものであった。
また、家康はこの他にも多数派工作を行なっている。有力諸大名との縁組である。その縁組は次の通りである。
松平忠輝(家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の娘)。
満天姫(家康の異父弟・松平康元の娘)と福島正之(福島正則の養子)。
小笠原秀政の娘と蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡男)。
水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。
保科正直の娘と黒田長政。
縁組をさせた娘は家康の養女にされているが、これは豊臣政権によって文禄4年(1595年)8月に出された、諸大名の無許可での縁組の禁止法令に明らかに違反するものであった。それにも関わらず、家康は無断縁組を次々と実行したのである。これに対して慶長4年1月19日、豊臣氏から無断婚姻の問罪使として三中老の生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴らが派遣された。家康は巧みに言い逃れたが、豊臣政権の中で孤立することを恐れて、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦した。
しかし、同年閏3月3日に家康と互角の実力を有していた利家が死去すると、同日、かねてから石田三成(五奉行の一人)と対立関係にあった加藤清正・福島正則・池田輝政・黒田長政・加藤嘉明・浅野幸長・細川忠興ら7将が、三成の大坂屋敷を襲撃した。だが、三成は事前に襲撃計画を察知して佐竹義宣のもとへ逃れた後、その義宣の仲介のもと、宿敵である徳川家康の屋敷に逃げ込んだ。これは家康なら、清正ら7将を慰撫することもできるし、懐に入った窮鳥を殺せば、家康の信頼は急落するであろうと踏んで、宿敵であるとはいえ自分を現時点で殺すこともないと踏んでいたからであった。
家康は次男の結城秀康の護衛をつけて、三成を丁重に佐和山城まで送っている。そして、7将も家康に慰撫された。だが、三成は騒動を起こした張本人の一人として家康より罰せられ、五奉行の職を解任されて佐和山城での蟄居を命じられた。
9月7日。家康、大坂へ入る。宿所は石田三成の屋敷。
9月9日。家康、重陽の節句のために大坂城に登城し、賀意を述べる。
9月12日。家康、宿所を三成屋敷から石田正澄(三成の兄)屋敷に変更。
9月28日。家康、大坂城西の丸に入る。
10月2日。家康、浅野長政・前田利長・土方雄久・大野治長らが家康の暗殺を謀ったとして、それぞれを処罰する。長政は甲斐府中に蟄居。治長は下総に流罪。雄久は常陸に流罪。利長は生母の芳春院(まつ)を人質として江戸に差し出すこととなった。
豊臣氏の蔵入地を勝手に有力諸大名に分け与えるなど、その後も家康の多数派工作は続いた。その経緯は次の通りである。これはまさに大老という地位を利用しての職権乱用であった。
遠州浜松12万石の堀尾吉晴に越前府中5万石を加増。
丹後宮津18万石の細川忠興に豊後杵築6万石を加増。
美濃金山7万石の森忠政を、信濃川中島13万7000石に加増移封。
対馬府中1万石の宗義智に1万石を加増。
会津征伐の発端
このような家康の専横に対して、不満を持つ者も少なくなかった。その一人が、会津120万石の有力大大名で五大老の一人でもある上杉景勝である。景勝は家康の専横を苦々しく思い、家康との直接対決を決意して、直江兼続に命じて軍事力の増強に乗り出したのである。それが慶長5年(1600年)のことであった。
このような上杉景勝の軍事力増強は、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって逐一、家康に報告された。さらに3月11日には、上杉氏の内部で唯一、時勢を見据えて家康との関係修復に奔走していた藤田信吉(津川城代)が、直江兼続の讒言を受けて上杉氏から追放された。これにより、景勝の軍事力増強は公然のこととなる。
家康は4月1日、軍事力増強を進める景勝に対して伊奈昭綱、河村長門(増田長盛の家臣)の両名を問罪使として派遣した。このとき、家康は西笑承兌に弾劾状をしたためさせている。その内容は、景勝の軍事力増強を咎め、異心が無いのであれば、誓書を差し出した上で上洛し、弁明するべきというものである。
これに対して、直江兼続は次のような書状を家康に送っている。いわゆる「直江状」という家康に対する挑戦状である。以下は直江状の一部である。
「当国の儀、其の元に於て種々雑説申すに付、内府(家康)様御不審の由、尤も余儀なき儀に候」
「内府様又は中納言(徳川秀忠)様、御下向の由に候間、万端、御下向次第に仕る可く候」
この直江状が家康の下に届けられたのは、5月3日である。家康はこの書状を受け取ってむしろ喜び、そして同日の内に上杉景勝征伐、つまり会津攻めを決意した。会津攻めの先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられた。伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられた。6月2日には家康の本国である関東の諸大名に対しても陣触れが出され、6月6日には大坂城西の丸において会津攻めにおける評定が開かれる。その前に、前田玄以や長束正家らによって会津攻めの中止が嘆願されたが、家康は無視している。その後の経緯は次の通りである。
6月8日。後陽成天皇より、晒布100反が家康に下賜される。
6月15日。天野康景と佐野綱正が家康出陣中の大坂城西の丸留守居に任じられる。同日、秀頼より黄金2万両と米2万石が、家康に下賜される。
6月16日。家康、会津攻めに向けて大坂城より出陣する。
6月18日。家康、伏見城を発つ。
6月23日。家康、浜松に宿営。
6月24日。家康、島田に宿営。
6月25日。家康、駿府に宿営。
6月26日。家康、三島に宿営。
6月27日。家康、小田原に宿営。
6月28日。家康、藤沢に宿営。
6月29日。家康、鶴岡八幡宮に参拝して戦勝を祈願する。
7月2日。江戸城に入る。
このように、家康は遅々とした進軍を続けた。そして、家康が会津攻めに出征して畿内を留守にした間の7月17日、石田三成が大谷吉継や毛利輝元、宇喜多秀家ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵する。家康はその日にはまだ、江戸城にあった。7月19日に入って、徳川秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣する。家康自身は7月21日に入って、江戸城から出陣して会津に向かい、そして7月24日、家康が下野国小山に入ったとき、鳥居元忠の急使により石田三成ら反家康派の挙兵を知った。
三成らの挙兵を知った家康は直ちに会津征伐の中止を宣言。小山評定を開き、上杉景勝に対しては結城秀康の軍勢を押さえとして残し、自らは反転西上して三成らの討伐に向かった。このため、徳川軍と上杉軍が直接対決することは無かった。